小学校4年生の担任だった先生は今では考えられない先生だった。ペットである大型犬コリーを教室に連れて来られたり、クラスメイトの誰かが喧嘩すると連帯責任として全員が体罰を受けたのだから学校一の恐怖先生と恐れられていた。
野球が大好きで体育の時間はいつもソフトボール。女子生徒は適当にとドッジボールをやっていたように記憶しているが、この先生は大の南海ファンで、ある時ナイターに行きたい者は夕方の時間を決めて学校近くの駅に集合することになった。
電車賃と入場料を母から貰って参加することになり、難波にあった大阪球場の外野席に入った。
まだテレビが電気屋さんにしか置かれていない頃、プロ野球の実況放送はラジオの世界だったが、実況を伝えるアナウンサーの声も聞こえないスタンドに座り、内野だけが賑わっていた球場の雰囲気に子供ながら興奮したことをはっきりと憶えている。
先生がファンだったのは、その時に外野におられた選手だったが、その姿を目にしてから3年後に引退されることになった。
その選手は南海の監督として知られる鶴岡氏らと共にご活躍された偉大な選手。不思議なご仏縁から数年前にお葬式を担当させていただき、当時のことを懐かしく思い出しながら司会を進めた。
あの先生はどうされているのだろうか。ご存命なら90歳前後になっておられる筈だが、昭和30年代を迎えた頃のことが無性に懐かしく思い出された。
5年、6年の担任くださった先生は音楽に造詣深い先生で、クラシック音楽を蓄音機で聴かせて貰ったこともあるし、校内の放送設備の設置に向けて尽力され、放送室の誕生から放送部の一員として参加させてくださった。
音楽が好きになったりアナウンスに興味を抱いたのはこの先生の影響からだが、5年生の時に忘れられない出来事があった。同学年の他のクラスの先生が病気から休職を余儀なくされ、生徒達が他のクラスに振り分けられて一緒になったのだが、教室に入らないところから、それから6年生になるまで理科室が教室として使われた。
卒業式が終わってから教室に戻って茶話会となったが、そこで思い出に合唱したのが「赤とんぼ」の歌。同級生達にとってこの歌は誰もが忘れられない曲となっている。
40歳前後の頃だったと記憶するが、羽衣のホテルで同窓会が行われることになり、幹事から電話があって「校歌を歌いたいのだが何か方法を考えて欲しい」と頼まれ、当日の朝からハモンドオルガンで演奏して収録。よくぞ旋律を覚えていたものだと自分でも驚いたが、この先生が校歌に深いゆかりがあったことから欠かせない式次第として組み込まれた。
そうそう「独り言」の中で書いたことがある不思議な出来事をもう一度紹介しておこう。6年生の時、1年生から6年生の各クラスから一人ずつが講堂で歌うイベントがあった。これには保護者も参加出来るので母が楽しみにしていた。
クラス代表として選ばれたのは嬉しかったが、どうしても嫌な問題が生じていた。それは、新しく赴任された先生がアコーディオンに長けておられ、その伴奏で歌うことになったのだが、私はリズム感からするとピアノという強い思いがあったのである。
1年生から始められたイベントは、ついに私の前のクラスまで進められた。次は私の番であったが、ここで不思議なことだが奇跡みたいなことが起きた。私の番なのに舞台の袖で尋常でないやりとりの光景が見える。それらは数分の中断となり、やがて司会の先生から次のような言葉が会場に流れた。
「アコーディオンに不具合が発生いたしましたので、伴奏はピアノで行います」
こんなことが起きるとは本当に不思議なこと。ピアノ伴奏で歌い終わったら、アコーディオンが元通りになったというのだから私だけがピアノ伴奏という出来事だった。