昔、12月31日に8軒のお葬式を担当させていただいたことがあった。その内の4軒の司会を担当したのだから大変だったのは言うまでもないが、前日の30日の午前中にご逝去され、年内にお葬式をとご要望され、その日にお通夜、大晦日にお葬式というお客様が3軒あった。
当時は夕方の4時から5時の式もあり、火葬場が5時半頃まで受け付けてくれたのだから今では信じられない話。地方公務員は5時までに仕事を終えるように変化したのは誰の責任かは知らないが、市民サイドから行政サイドに変化した時代の流れもあった。
年末のお葬式には困った問題が少なくなかった。当時の大半は自宅で行われており、近隣に対する配慮で、新年早々からお通夜や葬儀となれば大変と大晦日の決行となった背景があったが、「お互い様感情」が希薄した現在では考えられない「ご近所同士」の温かい交流もあった。
「早く精算に来て欲しい」とのご要望も多かったが、それは葬儀費用を未払いで年を越されるのに抵抗感があられたからで、年末の遅くまで走り回っていたことを記憶している。
年末に商店街で行われたお葬式が大変だったことも忘れられない思い出。当時の商店街はスーパーという存在もなく午後10時頃まで開店されている店が多く、人通りも今では想像も出来ない凄さで、弔問者とどう対処するべきかが悩みの種だった。
昔は参列される人数も半端じゃなく、200人や300人が当たり前。ちょっと手広く商いをされていたら500人ぐらいは参列されたのだから大変だった。
「間もなくご会葬の皆様のご焼香ですが、当商店街はご通行の皆様も多く、誠に恐れ入りますが式場側にお寄りいただき、ご当家の東側にご移動を」なんてアナウンスが欠かせなかった。
お通夜の場合、会社関係や友人の方々は午後8時頃までにご焼香を済ませてお帰りになるが、商店街関係の方々の中には午後10時に閉店されてから来られる方もあり、受付を片付けて清掃をすると我々は午後11時過ぎに失礼するのも当たり前。葬送の形式や環境の変化はそれからどんどん変化してしまい、お通夜とお葬式の参列者数がいつの間にか逆転し、今ではお通夜の方が多くなっている事実に寂しい思いも抱いている。
ご訃報を知って参列するのは「焼香」を目的とするものではなく、葬送とは「お見送り」する意味があり、それからすると「ご出棺を」ということになるが、最近の傾向は「焼香」を終えたらお帰りになるケースが多くなっている。
昔、著名な建築士さんから電話があり、「是非時間を」と東京から来られることになった。目的は火葬場の設計で、私が書いた小説「七万歩才のあの世の旅」をご笑覧くださったそうで、その中に書いた「野辺の送り」について話を聞きたいと言われた。
「小高い丘を肩を落として柩と共に歩みゆく情景を人は『野辺の送り』と呼んだ」というようなことを伝えたが、それがヒントになって霊柩車から炉のある棟まで長い回廊を設けて「柩と共に歩む」設計につながったところから、オープニングセレモニーのプロデュースや司会を担当させていただくご仏縁に結ばれたのだから不思議な出逢いであった。