昨日の号で「あの世」の教育に触れたが、輪廻転生や「あの世」の存在を信じたら、きっと人を騙したり危害を加えるなどの犯罪行為が激減すると確信している。
葬儀という儀式にあって「浄土真宗系」には「引導」という作法は行わないが、他の宗派の場合には「引導」作法が行われるのが多く、その代表的で分かり易いのが禅宗系の「喝」という導師の大きなお声である。
この世からあの世へ送るべく作法ということになるだろうが、我々の仕事に従事していると「あの世」の存在を信じなければ成り立たず、昔から誰よりも「あの世」の存在を信じて今日まで生かされて来た思いがあり、30年前に小説「葬儀屋七万歩才のあの世の旅」を書いたきっかけにも大いに関与していたことになるだろう。
小説の中では「十王経」をベースに「あの世」の裁判官の存在を物語の中心にしているが、過去に宗教者向けの講演で「小の月・大の月」について触れたら、何処でそんなことを知ったのかと質疑の時に問われたことがあった。
ここに再掲しておくが「2・4・6・9・11」という「小の月」は「西向く士」であり、「1・3・5・7・8・10・12」という「大の月」は「いざ五七夜の十王」となる話で、戦いに明け暮れていた士が虚しさから悟り、西方浄土の存在と「あの世」の十人の裁判官のことを思い浮かべ「西向く士、精尽きて、いざ五七夜の十王経」という語呂合わせみたいな言葉生まれたのである。
初七日から四十九日の満中陰まで7回ある裁判。それで全ての方の行先が決まるとされているが、「百箇日」「一周忌」「三回忌」の3回の追善の機会が残されており、それらは国際の飛行機のクラスのように、ビジネスやファーストへのアップグレードが可能ということにもなる訳である。
仕事の関係から多くの宗教者の皆さんとのご仏縁があるが、本物と称される方にはそれこそオーラみたいな後光を感じることもあるし、お説教を拝聴しながらいつの間にか手を合わせていた体験もあったし、そんな人物が導師を務められるお通夜や葬儀では、これが「神変」の世界だという雰囲気が自然に生まれ、誰も私語さえ出来ない環境となっていることも確かである。
仕種、言葉遣いから歩かれるお姿に如何にも「宗教者」というイメージが感じられるものだが、そんなお寺様達とご仏縁に結ばれた私の人生は本当に有り難いと感謝の合掌をしているこの頃である。
昔、大阪府の仏教徒大会で大正大学の「藤井正雄先生」と対談させていただいたことがあった。先生は「葬儀大事典」を監修された人物でもあられ、お父様は知恩院のトップに就任されていた歴史もあった。
また作家としても著名だった「寺内大吉先生」ともテレビの番組でご一緒したことある。どちらも浄土宗の世界では知らない人がいないぐらいのご存在だが、一介の葬儀屋である立場で、そんな方々とご一緒させていただいたことも人生の宝物のように思っている。
上述した中に「語呂合わせ」があったが、それに関して「四十九日が三月に跨ったらいけない」という言葉が存在しているが、「始終苦が身憑き」とのことから嫌われているだけで、人の社会は何でも意味も考えずに気にするので困るが、外国の飛行機の席に「13」がないのも縁起担ぎで同じことのようだ。