長い間、葬儀の司会を担当してきた歴史の中には様々な体験があった。幼い子供さんの交通事故死なんて絶対に担当したくないケースだが、葬儀社として存在して来た以上避けられない悲しい現実でもあった。
自分より若い方を担当すると寂しくなるし、何より事故や事件の被害者の葬儀はご遺族の方々の姿が見られないぐらいの状態になり、そこに参列される方々にも言葉で表現出来ない重い環境空間となってしまう。
そんな中で淡々と司会をするなんて絶対に不可能なこと。いつも自分の仕事を後悔するひとときとなっていた。
戦後のベビーブームで生まれた団塊世代が60代を迎えている。私もその一員だが、年賀の欠礼状から同窓だった人物が亡くなった事実を知って寂しい思いを抱いたし、つい最近に会った同年代の人達との会話の中に、「団塊世代の何パーセントが亡くなってしまったのだろうか?」というのが出て来てそれぞれの人生時計の時間を確認し合うことになった。
50代半ばの頃、不思議な体験があった。3日間連続で100歳以上という超ご高齢の方を担当させていただき、ご遺影から「あなたはまだまだ若いよ」と語り掛けられたような気がした。
自分の腹部に何れ手術を受けなければならない問題があることを知ったのはそれからしばらくしてからだったが、その時も人生時計のことを天秤的に考えながら、手術を受けようと決断することもなった。
人生には様々な衝撃との出遭いがあるが、大病もその一つであり、何度も入院体験のある私には、病室で白い天井を見ながら壮絶な闘病生活で葛藤される方々の心情を身を以て体感していると思っている。
衝撃との出遭いで分析された第一位は「夫婦間に於ける子供の死」、第2位は「伴侶の死」、第3位は「一親等家族の刑の確定」、「第4位は、両親、兄弟、朋友など身近な人の死」と何度も紹介したが、世の中には事故、受験失敗、失恋、失業、離婚など様々な不幸もあり、「加害者になるな」「被害者になるな」という口癖が生まれた訳である。
不幸でなかったら幸せということになるが、欲望のレベルの高低でその度合いは変化するもので、最も悪いことは自身の欲望のために他人を不幸にさせることだと考えたい。
高級葬儀のHPの中に「コラム 独り言」があり、毎回「幸せ列車」のHPに<HOME>でリンクしているが、HPの世界で知られる知人が「幸せ列車」のHPは衝撃的なレベルで凄いと感想を聞かしてくれ、それが管理人さんの創作技術や更新されるコラムのグローバルな内容を賛辞するものと知った。
そんなHPの中に私の「各駅停車」とタイトルされたコラムのページがあるが、更新しなければとプレッシャーを感じながら何とか現在まで続いて来ている。