記事一覧

葬儀は「処理」ではない  NO 3516

新聞に投稿された川柳の欄を読んでいたら、「柩には携帯電話入れ内で」という作品があった。これで思い出したのが、昔、ヨーロッパのある国で実際にあった埋葬に関する話題。柩の中に電話を入れておいて欲しいという故人の遺言の遂行だった。

当時に携帯電話の存在はなく、有線となっていたが、本人がもしも「生き返ったら」との恐怖感を払拭させる思いを理解した遺族は、そんな突飛な要望に対応することにした訳である。

多くのマスメディアにも採り上げられた話題となったが、数か月後に取材をした記者が「未だに電話は掛かって来ません」と遺族が言っていたことを紹介し、その後はその話題に触れられることはなかったようだ。

人は寂しくこの世を出立することになる。病室や自宅で家族に看取られながら静かに終焉を迎える人もあれば、自然災害や交通事故に巻き込まれて被害者になるケースもあるし、時には事件の被害者になってしまうことがあるのが人間社会の悲しい現実だが、「自然死」という言葉が徐々に少なくなって来ている事実には憂いを感じるべきだろう。

人間社会が医学の発展によって長寿となり、高齢社会の到来を迎えて老々介護の晩節という悲壮な環境を強いられることも増え、周囲に次々にオープンする整骨院や老人ホームや介護施設の広告を見ながら、全てが「善」で構築されていることを願ってしまう。

個人商店の立場や法人などの組織では「社団法人」「財団法人」「医療法人」などを除いて単なる会社組織なら収益目的の事業であることは否めず、入所してから後悔されているケースを紹介している記事を目にすることもあるが、どんな世界にも本物と偽物があることを理解し、選択眼を磨いておく知恵が大切なのかもしれない。

我が業界にも信じられないビジネス発想が登場している。私は葬儀を「ビジネス」と捉える考え方には強い抵抗感を抱いているが、それは葬儀という仕事が悲しみを理解しようとする努力の上に成り立つプロの仕事であり、それを遣り甲斐や誇りと考えたいからで、人の最期を「処理」するような発想は絶対にして欲しくないからである。

テレビで最近の葬儀事情を特集する番組があった。その中に大手スーパーが事業を立ち上げた葬儀ビジネスの一環が紹介されていたが、さすがにスーパーマーケットらしく、「3万円で葬儀が」と謳っていた。

柩、火葬場までの霊柩車、火葬料金だけを考えても絶対に無理なことは常識である。枕元に設営する燭台を線香も必要ないのだろうか。また納棺に先立って着せられる旅立ちの衣装はどうするのだろうか。柩の内装はどんなものなのだろうか。最低限度の副葬品はどうなるのだろうか。最低限度二日間安置される場所はどうするのだろうか。これらに伴うスタッフの人件費はどうなるのだろうか。法的な役所の手続きや火葬場申し込み手続きはどうなるのだろうか。

そんなことを考えるとそれらが決して「善」の発想ではないことが明確である。マスメディアの取材のレベルもあまりにも低い現実もあるが、ある記事の中に「葬儀一式の中に『お布施』や『通夜振る舞い』『精進落としの御斎(おとき)などはふくまれていないようです』と書かれていたが、参列される親戚の人数が異なるので概算を見積もる際にもアバウトになるのは当然である。

我が葬祭業界は、今、ネット社会の到来を利用して紹介ビジネスが潮流である。「葬儀社を紹介します」と記載して紹介料を目的としている訳だが、大手物流組織やコンビニが参入しているのだから混沌としている。葬儀業者を下請け化する「ハイエナビジネス」と指摘する声もあるが、近い将来に自社のモールが敷地内に葬儀の式場を設置し、利用する業者に使用料を課すことになると予想している。

カレンダー

2014年9月
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
- - - - - - -

分類一覧

過去ログ