イスラム国の一連の事件で様々な意見が論議されていた。新聞、テレビなどのマスメディアをはじめとしてネットの中でも多くのやりとりが行われ、政府の対応に批判する側と擁護する側が激しく対峙する世界もあった。
著名なブロガーが持論を書き込まれるケースも多くあったが、ある人物が日本の仏教に対する宗教観が希薄する中、イスラム社会の信仰に対する行動の具現化が世界中で表面化し、その中の一部が過激派として刃をむけるようになった現実を迎え、日本人はもう一度この国に根付いている仏教のことを考える必要性を訴えていた。
何度も書いているように仏教は「奪い合い」ではなく「与え合い」の教義がある。
過去に何度か紹介している函館の水引細工アート「清雅舎」の「凾館便り」のページにコラム「迷いの窓」があるが、その第一号「公開の日」の冒頭に次のような文章があった。
『あるお寺様曰く、「仏の教えは一つである。山に例えるなら、そこへ辿り着くルート(方法)がいくつもあり、それが仏教宗派となった』
これは仏教宗派に至った経緯を分かり易く説かれた言葉のように思える。先月の末、深いご仏縁に結ばれるお寺の檀家総代さんの本葬儀がホテルを会場として行われた。そこで受付に準備して参列者全員に配布されたのが仏教讃歌「三帰依」のパーリー語原典の歌詞と楽譜だった。他に法然上人がお作りになった「月影」もあってご唱和いただいたが、それによって会場空間が清らかで厳粛な「式場空間」に神変出来ていた。
「三帰依」は「佛・法・僧」のことで、これを最も理解出来ることが聖徳太子制定の「十七条憲法」で、第二条に「深く三宝を敬え」とあることで知られている。
「仏様」「教え」「説かれる人」が「三宝」となる訳だが、前述の社会学者はこの憲法の第一条の「教え」の重要性についても強く訴えておられた。
「以和貴為」の言葉で知られているが、「和を以て貴しとなす」という考え方は、宗教や思想を超越して人々が集まることから何事も始まりがあるということで、他の宗教や民族間の思想の争いを起こす人間社会の「性(さが)」と「業(ごう)」を戒めているとも言えるだろう。
インドの偉大だった指導者「ガンジー氏」の暴力に対する無抵抗主義も崇高な考え方だが、現存されていたら間違いなく現実を嘆かれているだろうと想像する。
タイも仏教の盛んな国であるが、合掌する姿は我が国とは異なっている。掌を合わす際に中央部を少し膨らませるようにするのが一般的で、それは蓮華の蕾を表現していると言われている。
タイで合掌することを「ワイ」とも言うが、同時に掛ける言葉に「サワッデイー」があるが、インドやネパールの合掌とは少し意味が違うことも理解しておきたい。
インドやネパールでの合掌で掛けられる言葉は「ナマステ」が知られているが、「ナマス」には敬礼の意味が込められ「テ」は「あなたに」ということになり、ヒンズー教やジャイナ教でも受け入れられているが、仏教では「帰依」、仏典を漢訳したものでは「南無」となる。
イスラム社会では「アッサラーム・アライクム」が知られているが、宗教の異なりがあっても互いが尊重し合う世の中が果たして訪れるのだろうかと手を合わす。