明日から甲子園球場で高校野球の大会が始まるが、今日は開会式のリハーサルが行われたそうで。その模様が各局のニュースで報道されていた。
そんな映像を観ながら疑問に思ったことは、本番の緊張感を薄らいでしまうこと。イメージだけなら納得出来るが、大半の構成を見せてしまっては開会式本番の感動がなくなってしまう可能性があるではないか。報道のプロがそんな配慮を忘れたら最悪で、プロデュースという意味をもう一度考えて欲しいものである。
「独り言」では入院中の出来事を書き、「幸せ列車」のコラム「各駅停車」では葬儀のプロ達が始めている活動についてふれたので、ご興味があればご訪問いただければ幸いです。
これまでの人生で日本各地のホテルや旅館に宿泊した歴史があるが、その大半は講演活動の際に利用したものである。
振り返れば入院から病院での宿泊?も数多くある。記憶しているのを積算してみると250日ぐらいになるのだから少なくない。最短の2日、最長の120日を含めて8回も体験しているのだから自分でもびっくりである。
その内3回が「あの世」を覗いて来たような体験があるので、誰よりも「生かされている」思いが強く、残された余命で「命」を使う「使命感」に燃えている。
葬儀に携わる立場が「悲しい事故や事件を起こさないで」と訴えるのは異例で初めてと思うが、「命の教育」と「あの世の教育」にも積極的に取り組むつもりで、殺伐とした砂漠みたいな社会に小さなオアシス活動が出来ればと考えている。
幸いにして賛同してくれた葬儀のプロ達が北海道から九州まで存在しているが、一般の方々に提案したら全員が賛同してくださったことが何よりの励みで、退院したらすぐに行動を始めたいと考えている。
「幸せ列車」にも書いたが、病室の白い天井を見つめていると「行きたい」「食べたい」「見たい」「会いたい」という欲望の「たい」のオンパレードになるが、今回の入院では齢を重ねたこともあり、「やらなければならない」という責務を強く感じ、それについて考える時間を与えられたような気がしている。
昔からプラス思考の性格で、「天命」「使命」「宿命」に対する自己納得の感受性も高く、この世を出立する前に何か「かたち」を残したいと思っているが、それが「形見」になる前に完成となれば有り難いことだと願っている。