葬儀社を下請け化して葬儀の申し込みを受け付け、そこで手数料をと考えた大手流通グループの存在があり、ネットの広告を派手に打ち出しているようだが、発想が提案する側の利益追求にあるため、お客様のメリットは少なく、気付いた葬儀社が手数料を支払う発想はおかしいと加盟から脱退しているケースも出ているようだ。
そんなグループの子会社が、今度は「供養」と「納骨」のビジネス展開を打ち出した。とにかく「売上」が第一の企画のよう。社会性や歴史の責務がどうであろうと、親会社からの命に逆らうことは縦社会では無理なこと。
部下の手柄は上司のもの。上司のミスは部下の責任なんて言葉が流行しているが、そんな言葉を思い出しながら「気の毒に」と「何でもあり」の現実に憂いを感じている。
「コンビニは24時間営業だから、葬儀を受付したら行けるのではないか?」と、そんな短絡的な発想で展開したコンビニグループもあったが、大切な人の大切な最後の儀式をスーパーやコンビニに託する発想に将来はないと断言する。
最近に話題になっている不適切写真のネット投稿だが、あまりにも軽過ぎる人達が無責任に葬儀を受け付けると考えるだけでも寂しくなり、日本の社会がいよいよおかしくなって来ているように思えるこの頃である。
この問題は昨日の号で書いた「命の大切さ」「命の教育」「あの世の教育」にも関係する問題で、人の死が「処理」として捉えられることがどれほど冒涜しているかを真剣に考えて欲しいものである。
葬儀は「プロ」の領域が求められる仕事である。なのにビジネス窓口での受付やアルバイト店員が対応するとはおかしなこと。この間違いこそが悲劇であり、そのことに気付かない人達が喜劇の中に踊っているような気がする。
数年前、友人の息子さんの結婚披露宴に出席したら、隣席に座られた人物がタクシー会社の経営者で、名刺交換をしたら私の仕事を知られて驚かれていた。
やがて飲食が始まって様々な話を交わしたが、私が申し上げた二つの話に想像もしなかったぐらい興味を抱かれ、「今日は偶然に隣同士になってこんな話が聞けるとは」と感謝されることになった。
一つはタクシー強盗から運転手の皆さんがどのように命を守るかということで、3万円から4万円程度で命を落とすなんて最悪と指摘。犯人は心理的に捕まりたくないから危害を与えようとするのだから、同情することを見せるだけで随分と負傷する割合が減るというものだった。
これは「命の教育」にもつながる問題で、「こんな犯罪をするなんて、よほど事情があるのだろう。私も昔に苦労したことがあるからアドバイスするが、これを最後にしておきなさいよ。早く逃げなさい」
この同情と逃亡を促すだけで犯罪者の切迫感は大きく異なることになり、刃物で殺傷する行為が間違いなく低くなるものである。
そして、もう一つのことだが、過去に体験した悲しい葬儀のことだった。タクシー会社から葬儀の依頼があり、「幼い子供を巻き込んだ事故が起き、遺族側から最高の葬儀社を手配しろと言われて電話をしたのです」と言われたのだが、被害者の方に「葬儀社に断られました。加害者側からの立場で葬儀を担当しても内容ある葬儀は不可能です。被害者側の思いを十分に伺って担当するのが理想で、被害者側からの依頼が重要なのです」
そんなやりとりをそのまま被害者側に伝えたタクシー会社だが、被害者側はすぐに弊社に葬儀依頼の行動をされ、心残りのないよう、そして思いを「かたち」にする葬儀が執り行われる結果となった。
これを加害者側の依頼で担当していたらどうなっていただろう。タクシー会社の社長さんは、この二つの話を真剣に聞かれ、「勉強になりました」と握手を交わしてお帰りになった。