記事一覧

思い出したこと  NO 3497

昨日、名古屋で衝撃的な事故が起きていた。名古屋家のすぐ近くで車が意図的に歩道を走行し、多くの被害者が出たという出来事だが、「誰でもよかった。殺したいと思って」と供述しているのだから普通ではない。巻き込まれた人達に理不尽な怒りが込み上げておられるだろうと想像する。

現場となったところは何十回と通ったことがあり、自分が被害に遭遇しなかったことに手を合わせているが。いやはや災難とは本当に「いつ何処で」被害者になるか分からないもので今日あることは幸運の積み重ねだと実感している。

BSのテレビのCMで司会や映画評論で知られる「浜村淳さん」が起用されていた。それは過去にも書いたことのある「にんにく卵黄」のCMで、前に触れた時は指宿のホテルの女将さんが起用されていた時だった。

「浜村淳さん」は私の一回り上の年代で、もう78才を迎えておられるが、「有り難う浜村淳です」のラジオ番組を40年も続けられているので凄いことである。

浜村さんが司会をされていたテレビ番組にゲストとして何度か出演したことがあったが、生放送の始まる1時間前の打合せ時に「この問題には触れるべきではないのでは?」と言うと「そうでしょうね」と同調されていたのに、本番の中でさりげなく触れて来られるのでいつも苦労していた思い出がある。

私が呼ばれるのはもちろん「葬儀」に関するテーマだが、伊丹十三監督作品で話題を呼んだ映画「お葬式」に関する月刊誌の対談でご一緒したこともあった。

企画をされたのは浄土真宗本願寺派の「御堂さん」という月刊誌だったが、対談の場所は北御堂で「映画を観てください」という条件から難波の劇場に行ったことも憶えている。

対談の企画で構成されていたのは浜村氏が映画評論家としての立場。私は葬儀社としての立場。そしてご主人を送られた遺族の立場からボヤキ漫才で知られた人生幸朗師匠の奥様「生恵幸子さん」が来られており。テレビ局のプロデューサーであり住職でもある本多氏がまとめ役となっておられた対談だった。

それからかなり年数が経った頃、また不思議なご仏縁で浜村氏が私のことをラジオ番組の中でとりあげられていたそうだ。「そうだ」と書いたのには理由があり、これはその番組を聴いていた私の友人や知人から教えられたからで、その話から大凡の内容を知ることになった。

その日の新聞の社会面のトップ記事に私のことが掲載され、大きな顔写真まであり、その記事を読まれた浜村氏が番組の中でその出来事を紹介されたというものだった。

我々葬儀社が新聞記事に掲載されるのは悪いことをしなければ難しいが、弊社は新聞の一面にカラー記事として採り上げられたことや、前述のように心温まる話として社会面のトップ記事に採り上げられた歴史があり、それは弊社の誇れること。そしてこれまでの人生の中の「生かされた証し」の1ページとして心に刻んでいる。