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三丁目の夕日  NO 3295

 過日に書いた「串カツ」屋さんに立ち寄ったら、私の「独り言」を開いたそうでびっくり。友人から教えて貰って興味を抱いたそうだが、悪く書かなくてよかったと思って帰って来た。

 我が町の「疎開道路」には様々な飲食店が存在するが、お気に入りの店が増えたと書いておこう。

 そんな店の所在地で昔のことを思い出した。かつて市バスが通っており「南生野三丁目」というバス停があった。小学校の5年生から中学校卒業までの5年間の通学で利用したので懐かしいが、記憶では「阿部野橋」と「大成通り」「今里」「深江橋」などを結ぶ13番路線である。

 朝の通学時間には次の停留所のある国道25号線まで歩いたが、「林寺新家町」には「八尾」「杭全町」から来る路線や、舎利寺の生野小学校を通る12番路線もやって来るところから便利だった。

「南生野三丁目」から「林寺新家町」までは距離にして200メートル弱。だから本数の少ない13番路線を利用することは少なかった。

 当時は国道25号線を市電が走っていた。「百済」から「寺田町」「天王寺西門」「恵美須町」を経由して「桜川二丁目」行きと「福島西通り」行きが運転されていたが、通学には「恵美須町」から「阪堺線」に乗り換える行程もあったので、時折に気分転換で乗ることもあった。

 通学定期を購入していたのは阿部野橋までの市バスと、そこから乗り換える「上町線」なので、市電と阪堺線は現金を要したが、当時の市電は10円だったし、寺田町駅から国鉄なら5円という時代で、まさに映画の「三丁目の夕日」の光景の世界だった。

 バスの定期を購入する場所は不便で、現在の大阪府立病院近くにある住吉車庫だった。

 中学校時代に忘れられない先生が5人おられる。一人目は前に書いたことのある社会のM先生で、「君達の将来で憲法改正があるかもしれないので次の授業までに96条を暗記してきなさい」と言われ、怖い先生なので必死に憶えたので今でもスラスラと出て来る。
 二人目の先生は1年生の時の音楽のT先生で、私の高音の歌声を褒めてくださり、2年生にって若い女性の先生になったら、初めての授業で名前を呼ばれ、歌って見なさいと命じられたので伝達されていたものと想像するが、春休みの間に衝撃的に「声変り」をしてしまっており、とても歌える状態ではなかったので悲しい記憶として残っている。

 3人目の先生は2年生の担任であったS先生で、この仕事に従事するようになってから間もなく、源ヶ橋近くのお葬式に参上したら、その先生がご親戚の中におられて懐かしがられ、その後に四条畷や野江のご親戚のお葬式を担当させていただくご仏縁に結ばれ、やがてはその先生のお葬式を担当する寂しい思い出となってしまった。

 4人目は1年生の時の美術の先生。見るからに芸術家風の雰囲気があったが、この先生は天王寺にある大阪市立美術館で開催されるイベントの宣伝ばかりをされ、行かなかったら成績に影響するような発言までされたので生徒達から敬遠されていた。

 5人目も美術の先生で、3年生の教科を担当されていた。その先生は八尾方面からの市バス9号路線を利用され、ある時「林寺新家町」から乗った私の制服を目にされ、「君はこんなところから越境通学しているのか」と驚かれ、その後も何度かお会いすることになったが、何か恥ずかしくて目を合わさないようにしていたことを憶えている。

 私の年齢から考えると、その先生方はもうこの世に存在されていないことになるが、ここで出逢ったご仏縁に手を合わせよう。