ある高齢の女性のお葬式だった。故人のご伴侶は40年ほど前にご逝去されており、多くの子供達を見事に育て上げられた歴史があり、それはそれは立派なお葬式を進められることになった。
別の話題になるが、お墓を建立する場合、兄弟が3人あったとしても長男が施主となり、費用の負担を仮に4割、3割、3割と負担し合ったとしても、弟が「3割負担した」と言う考え方ではなく、「兄が建立し、我々弟はお供えをした」と考えるのが供養と呼ばれる背景に重要なことで、そんな家風がある家とは素晴らしいものである。
さて、冒頭のお家だが、息子さんや娘さん達の方々からお言葉を伺っていると、前述した「お墓建立」の本義みたいなハートが感じられ、担当させていただく自分もその一員のような思いになったのだから不思議だった。
「喪主は兄貴。最終決断は喪主が決断すればよい。我々の思いはこのプロの人に伝えて託するが、それぞれが香典と考えて欲しくない『お供え』としてお金を持ち寄る、だから香典返しなんてなしだ」
そんな会話が交わされる中に身を置いていた私だが、「このプロ」と言われた対象になる訳で、只ならぬ重圧あるの責務を背負うことになった。
「他人様に迷惑を掛けてはいけない」「世間様に笑われるようなことや白い目で見られるようなことをしてはいけないよ」「亡きお父さんが悲しむことや怒ることをしてはいけないよ」「喧嘩や争いは駄目。人間には言葉というものが与えられているから」「みんな仲良く暮らすの」
子供さん達は、昔からそんなことを聞かされていたそうだが、お母さんの日課だったという行動を耳にしてその偉大で優れた宗教者のようなお人柄を知ることになった。
「お天道様、おはようございます。今日も目覚めさせて有り難うございます。子供達の仕事がうまく進みますように。孫達が事故に遭わないように」
これが起床された時に太陽に向かわれて手を合わす時のお言葉で、それからラジオでニュースを聴くのが一日の始まりだったそうである。
故人の人生を物語るナレーションの創作だが、皆さんから取材したことを文章にすれば1時間以上を要するぐらい豊富な内容があったが、これを4分や5分に凝縮させるなんて絶対に無理なこと。そもそも何十年と生きて来られた歴史を数分で語ろうと言うことに問題がある。葬儀の始まる1時間前から参列いただき、皆さんに「こんな人生を過ごされた方でした」「見事に生き抜かれた人生に対する思いと、その方に育まれて見事にご成長されたご家族の皆様に励ましの心を合わせて拍手を」なんてことが出来たらよいのに、と思った葬儀となった。
このお母さんのご生前の生き方に何か大切なことを教えていただいた思いがしたところから、葬儀の中ではお寺様のご了解を頂戴して6分間のナレーションとなったが、葬儀を終えた数日後に14分間のドラマ仕立ての映像を構成し、ナレーションとBGMを吹き込んでプレゼントしたのも懐かしい思い出となっている。