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ご逝去を知って  NO 3559

ゲゲゲで知られる「水木しげる氏」がご逝去された。鳥取県へ行った時に氏の作品の伽羅や列車も走っていたので印象に残っているが、戦前、船中、戦後を見事に生き抜かれた偉大な人生に心から手を合わせよう。

小学生時代に紙芝居がいっぱいあった。その中に今で言うところのホラーになるが「墓場の鬼太郎」という物語があった。紙芝居はオジサンが絵を捲りながら言葉で聞かせてくれるものだが、「コケカ・キーキー」という泣き声が無性に怖かったことを憶えている。

小学生3年生ぐらいだったと記憶しているが、自転車のオジサンとオートバイで来るオジサンの2人の紙芝居があったが、幾つかの続き物の作品とクイズみたいな物があったが、どちらも私は発言を禁止されていた。

それはクイズの回答をいつも一番早く答えていたからで、正解だったらお菓子や水飴が貰えるので嬉しかったが、仲間がオジサンに私を答えさせないようにと皆で団結した出来事があったからである。

当時に記憶しているのが製菓メーカーだった「カバヤ」がカバのスタイルの車を走らせていたことや、ロバが屋台を引っ張って音楽を流しながらやって来る「ロバのパン屋」のことである。

屋台の後ろに並んで付いて行ったこともあったが、やっとテレビが登場した頃だった。

当時の「きつねうどん」は30円。近所に貸本屋さんがあってその奥に鉄板でお好み焼きをやっており、何も入っていないお好み焼きが5円だったことを憶えているが、その隣に卵を販売していた店舗があり、小さな物から大きな物まで10円から14円だったので卵の物価は変わっていないように思える。

テレビ番組「人生の楽園」に登場された気仙沼の「なにわのたこよし」さんのことはこの「独り言」でも紹介したが、その中で出て来た醤油味のたこ焼きを話しをしたのは私で、忘れられない美味しい思い出がある。

当時の「たこ焼き」は10円で8個もあったのだから信じられないが、その対極を体験し他のが東京に在住する友人が連れて行ってくれた銀座のクラブで、「この人、大阪の人。何か食べる物を出して上げて」から出されたのが5個の「たこ焼き」で、それで3500円だったことを知って1個700円なのだから衝撃を受けた。

その時に友人に「銀座だからウイスキーやブランデーで高額なのは仕方がないが、たこ焼きであれはないだろう」と言うと、彼が「それが銀座だよ」と返されてその話は進展しなかった。世の中様々ではないか。

複雑な問題  NO 3558

宗教と戦争は人を変えると何度か書いたが、その顕著な現実として考えてしまうのがフランスで起きたテロ事件だが、アメリカの多発テロ事件もそうだが、映画でも発想しないような行為をするのだから恐ろしいことで、世界中に安全な地はないと思うこの頃である。

太平洋上の西之島の噴火が続き、2年前に噴火が始まった当時から比較すると12倍以上の島になったというニュースがあったが、桜島や箱根の危険情報レベルがどちらも下げられたと報道されてはいるが、地球の自然の営みを考えずに地上で生活をする人間が愚かな行動を繰り返していることに憤りを覚えてしまう。

世界には様々な宗教の存在がある。日本の宗教観は普遍的と言われ、近くに神社や仏閣がある筈だが、遠い昔から万物に神が宿るという日本的な思想もあり、一神教的な宗教のことが理解出来ない人が多いと想像する。

外国人と交流すると「宗教は?」と確認されることが「仏教」と答えると「禅?」なんて返されることがあるので驚くこともある。

「まぐまぐブログ」や「独り言」のコラムの中で「仏教伝道協会」の発行する「仏教聖典」について触れたが、ホテルの客室に「聖書」が置かれていることが多いが、この「仏教聖典」も世界中のホテルに700万部以上がプレゼントされて目にすることもある。

崇高な発想をされた他のは精密測定機器の製作会社として知られる「ミツトヨ」の創業者である「沼田恵範氏」で、マイクロメーターの国産化で成功された人物である。

氏の仏教に対する思いは篤く、世界平和に仏教思想が何より重要と説かれているので印象に残っているが、世界遺産を破壊する「イスラム経」の一部の人の行動を理解出来ない人も少なくないと想像する。

イスラムの思想では偶像信仰に対する抵抗感が強く、世界遺産となっている石仏の破壊もやってしまった訳だが、日本人に鳥居や石仏を破壊しろと言っても誰も出来ないと思う。

それは我が国民の昔からの考え方だった筈だが、若い男女が聖徳太子の像を崩壊させた事件も起きているし、あちこちの文化遺産に油で被害を及ぼした人物もいるので国民性も変化が起きていることは確かなようだ。

今回のフランスのテロ事件に関してアメリカのFBIの長官が、イスラム国がネットで流す映像を観て触発される若者の存在が危険と指摘されていたが、フランス国内だけで所在を監視しなければならない人物が1500人もいるというのだから難しい問題である。

今日のニュースで知ったことだが、奥さんが被害に遭って亡くされたご主人がフェースブックに投稿されたメッセージ内容が話題になっていた。幼い子供さんと2人で憎むことをせずに生きて行く。愚かな加害者を喜ばすことになるので悲しまずに生きて行くというような文章だったと思うが、報復の連鎖の愚かさを指摘されている言葉のように感じた。

アメリカの下院議会で賛成多数となった難民受け入れ停止問題も複雑である。テロリストと難民問題をどのように対応するかが今後の鍵のようだが、ある国際的なジャーナリストがイスラム国は難民が受け入れられないことや差別を受けることを歓迎しているみたいで、各国が難民を排斥するようにするためにテロ行為を繰り返すと解説していた。

戦争の歴史を繙くとそこに宗教問題が絡んでいる事実がある。時の権力者は宗教を弾圧したり擁護したりして利用して来た事実もあるが、現在に世界で起きている問題はこれまでの歴史で最も難題であるような気がする。

体験から  NO 3557 

小学生が大麻を吸引し、自宅を捜索したら兄の高校生の部屋から大麻草が発見されたというニュースがあって衝撃を受けた。

この数日の間に警察官が飲酒運転で問題を起こしたという報道もあり、この国はどうなって来ているのだろうかと憂うこの頃だが、命の教育の重要性を改めて考えることになった。

事故や事件の被害者のお通夜や葬儀の光景は誰もが逃げ出したくなる環境で、我々葬儀社も担当したくないのは当然であるが、飲酒運転を取り締まる警察官が飲酒運転をする行動は理解出来ないことである。

冒頭の小学生の大麻事件に関して思い出したことがある。30年以上前のことだが忘れられない葬儀があった。それは、当時の子供達の間で流行して社会問題になっていたシンナー吸引で亡くなってしまった中学生の葬儀で、お母さんが若くして亡くなって父親と生活していた寂しさが原因と知ったが、お父さんの嘆かれる姿は憔悴されて誰も近付くことが出来ない状態だった。

その葬儀で火葬場に随行して待合室で2時間を過ごし、やがてお父さんと親戚の方々とお骨揚げを行ったが、そこで目にしたことこそ恐ろしい現実で、高齢者でも残る筈のお骨の大半がボロボロになっていた事実であった。

精神的な部分を崩壊させるだけではなく、体内のこんなところまで影響が及んでいた事実に衝撃を受けたが、それについてご遺族に話すことはしなかった。

数千回の「お骨揚げ」に随行した体験があるが、その中学生ほどお骨が少なかったことはなく、薬物については知らないが、シンナー遊びの恐ろしさを強烈に学んだ体験でもあった。

薬物に関する専門医師が子供達の世界に及んでいる事実に「低年齢で体験するほど依存症になる率が高い」と解説していたが、友人や周囲の人達から誘われたら「死にたくないからやらない」と断る勇気と知恵を知っておきたいし、この「お骨」の事実も広く知って欲しい問題だと考えている。

子供達の葬儀を担当することは避けたいのは当たり前でも、事故や先天的な疾病ということもあって体験したことも少なくなかったが、そこでアドバイスをしたことがあるので紹介しておこう。

お父さんやお母さんのご不幸でお通夜や葬儀に子供の同級生達が先生に引率されて参列さす場合があるが、返礼品である供養の品を後日に文房具で学校に届けることも多いが、ある小学生の葬儀で「漢字の解説本」を同級生に配られたことがあった。 

その子供さんは先天的な持病があってお気の毒な日を迎えられた悲しい出来事だったが、その本が同級生それぞれにプレゼントされ、それを繙く度に「あの時に」と思い出すことにつながり、何よりの供養になるような気がした。

黄昏の人生  NO 3556

秋色濃くなりゆくこの頃、紅葉は葉の命の燃焼であるというフレーズをナレーションで使っていたこともあるが、「人の恋しさが募る秋」「過ぎ行きし年月を想い懐かしむ秋」という言葉も思い浮かんで来る。

夏の暑さが過ぎ、朝夕に涼しさを感じ始めてしばらくするといつしか「水」に冷たさが戻っている。それこそ「秋」の到来で、この季節が好きである。

この季節になると歌われる歌がある。「今は、もう秋。誰もいない海」という歌詞の歌である。「トワ・エ・モワ」の名曲として歌い続けられている曲だが、ジャンルとしてはフォークソングと言われている。

越路吹雪さんも歌っておられたことが印象に残っているが、この曲の歌詞についてある音楽評論家の解説が今でも心に刻まれている。それは「泣きたい」「死にたい」というような歌詞が多い中、「死にはしないわ」という歌詞は珍しく、特筆するべきというもので、何か辛いことを励ます応援歌に聞こえるかもしれない。

この曲が登場した時はシャンソン歌手が歌っていたが、1970年に「トワ・エ・モワ」が歌って大ヒットしたのだが、発表と同じ日に越路吹雪さんのシングル盤も発売されていたことを知る人は少ないだろう。

その背景には作曲を担当された「内藤法美氏」が越路さんのご主人だったということもあるが、歌詞として特徴的なのは次の部分である。

「海に約束したから つらくてもつらくても 死にはしないわ」
「砂と約束したから 寂しくても寂しくても 死にはしないわ」
「空と約束したから ひとりでもひとりでも 死にはしないわ」

青春時代にギターを爪弾いていた時代があり、この曲が好きで引き語りのレパートリーにしていたこともあって懐かしいが、「トワ・エ・モワ」の2人が登場された時は言葉で表現出来ないような新鮮な感じを抱き、前述の評論家の言葉からずっと人生に於ける愛する曲の一つとなっている。

大ヒットしてからもう45年目を迎え、この間に「秋」を45回迎えたことになる。人生の黄昏を感じ始めたこの頃だが、晩秋という言葉が何かしら心の扉をノックするようなこの頃である。

リハビリを兼ね  NO 3555

現在このコラムは月間で数本だが、過去に毎日更新していたこともあった。この他に2002年3月から始めた「独り言」を日々更新するように尽力しており、駄文の列記だが今日の号で「4359号」となっている。

協会の事務局からの要望で、昨年から毎週水曜日の送信するメールマガジン「まぐまぐブログ」も始めたが、その一部を編集した「伝匠」という書物が夏に出されている。

また、不思議なご仏縁から「幸せ列車」のHPに「各駅停車」というコーナーを与えられることになり、ここでも駄文の列記を続けているが、昨年の6月に出掛けたオーストラリア旅行には初めてデジカメを持参、紀行文というかたちで現地から日に4本を発信したこともあった。

随分昔のことだが、我が家が英会話教室の会場となっていたこともあり、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアの若い留学生達が講師としてやって来ており、彼らが帰国してやがて結婚することになり、妻が招待されて結婚式に出席したこともあったが、飛行機嫌いの私は遠慮しており、オーストラリアの2人の女性に「70歳になったら行くから」と約束していたのだが、大病を患ってしまって行けないことも考えられ、前倒しして昨年に杖を手に思い切って再会して来たものである。

そんなきっかけでデジカメを持つようになり、時折に撮影してブログに掲載するようにもなったが、やはり写真というものは伝達の観点からすると想像以上のインパクトがあるようで、最近は写真をどうするかなんて思考を強いられるようになっている。

「幸せ列車」のコラムではそれまでの内容に変化をとの目的で7月7日から始めた「女将シリーズ」が思わぬ反響があり、もう100本を超えているのだから早いものである。

短編小説なのでその日に完結するところから歓迎されているみたいだが、何度も吐露しているようにその日の主人公となる女将の名前を考えるのが大変で、最近に流行の「キラキラネーム」ではイメージダウンになるので苦労している訳である。

友人、知人、同業者、取引先などの訪問者があるが、意外と多いのが近所や地元の方。妻が行く医院や美容室でも耳にすることもあるし、銭湯や喫茶店で話題になることも多くなっている。

「事実は小説より奇なり」ということもあるが、これまでの旅で体験したことの中には誰も信じられないこともあるが、時折にそんなことも加筆して小説というかたちで紹介したいと考えている。

列車のこと  NO 3554

前号では温泉博士と呼ばれる友人に関して書いたが、今号では鉄道博士と呼ばれる友人に聞いた話を書いておこう。

朝の喫茶店、彼の話は人気があり、多くの常連さん達が耳を傾けて質問をしていることも多い。話題は遠い昔のことが多く、そんな列車も走っていたなと懐かしまれることもあった。

東海道新幹線が開業したのは東京オリンピックが行われた昭和39年(1964年)のことだが、当時に登場した「ひかり」は16両ではなく12両だった。まだグリーン車という呼称はなく、一等車と二等車となっていた。

一等車がグリーン車と呼ばれるようになったのは1969年10月からで、一等車は倍額だったのをグリーン料金で利用出来るようになったので随分と安くなったことになる。

16両で運転されるようになったのは1970年の万博の年からで、一気に輸送人員が増えることになった。

びっくりする編成が走ったことがあるそうだ。それは1974年の秋に東京で開催された国際会議で、世界中から来られた人達が京都を視察されることに対応して、グリーン車を12両連結するというものだったが、当時の国鉄がそれに対応したというのだから凄い話である。

「ひかり」や「こだま」にはビュッフェが存在していたが、食堂車が登場したのは山陽新幹線が開通した1975年のこと。その後に4両の2階建て車両を連結したグランド「ひかり」も登場している。

270キロ運転される300系の「のぞみ」が登場した時に逸話がある、それは午前9時の会議に間に合うというキャッチコピーを謳うことから1番列車を名古屋駅も京都駅も通過させたというもので、両市から強い抵抗感が訴えられたということに発展している。

2階建て車両の1階は一人用から4人用の個室があり、幼い子供を連れた人達に歓迎され、一人用の部屋は窓向きに座るようになっていたが、随分とシートを倒すことが可能となっていたので人気があった。

個室に入ると車掌さんが検札に来られてカードキーをくれたが、それは記念に持ち帰ることが可能だった。

ある時、東京駅に到着してホームに降りたら、一部の人達が個室を指さすようなことをしている。何かあったのだろうかと行って見ると、一人用の個室で爆睡状態の人がいる。やがて駅員さんに知らせて起こされることになったが、さぞかし驚かれただろうと想像する。

温泉のこと  NO 3553

温泉博士と呼ばれる友人がいる。彼は自分のブログの中で実際に行った温泉の写真などを掲載しており、その数だけでも驚く内容である。

そんな彼から教えて貰ったのが温泉に関する情報で、<そうなんだ!>と学ぶことになった。

それによると女性に歓迎されるだろう三大美肌温泉として「佐賀県 嬉野」「島根 斐乃上」「栃木 喜連川」があり、ラドンの含有する日本一の温泉は鳥取県の三朝温泉だそうだ。

また、我が国の温泉の中で最も高温な湯を湧出しているのは長崎県の小浜温泉で、その温度にびっくり、何と105度というのだから沸騰以上となっている。

全国で温泉地が多いのは「北海道」「長野」「青森」「新潟」「福島」「秋田」「静岡」の順だそうだが、それを知って以外だった。

齢を重ねると温泉旅行に出掛けることも多いが、それぞれの温泉には様々な効能が表示されているが、温泉名人の話によると「今、温泉に来ている」というリラックス感が最も精神的によいことだそうで、湯の効能よりそちらの方が強いそうである。

ちょっと興味を抱いて調べてみたら、三大美人の湯は「群馬 川中」「島根 湯の川」「和歌山 龍神」で、三名泉は「兵庫 有馬」「岐阜 下呂」「長野 草津」、また三古泉は「兵庫 有馬」「和歌山 白浜」「愛媛 道後」となっていた。

過去に三重県の榊原温泉に立ち寄った時、「清少納言」という旅館を利用して興味を抱いたが、調べてみたら枕草子に三大名泉として「兵庫 有馬」「三重 榊原」「島根 玉造」となっており、「長野県 別所」「和歌山県 湯の峰」という説も出ていた。

三大温泉地として「大分 別府」「和歌山 白浜」「静岡 熱海」と紹介されていたが、これまでの人生で行ったことのある温泉を思い出しながら彼と楽しいひとときを過ごした。

随分昔から「温泉の素」や「湯の花」などが販売されているが、全国各地の温泉の名前を冠した入浴剤も存在しており、銭湯が休日の日は自宅の風呂で楽しんでいるが、やはり白っぽい物や青い色になるものを選択してしまい、慣れて来ると「香り」を優先させることになっている。

温泉の話題の中に面白いHPがあった。九州のある温泉地の旅館だが、温泉が枯渇しそうな状態になって困っていたら、夢の中で畑を掘れというお告げがあったそうで、信じられないがやってみようと掘削したらびっくりする湯量の温泉が湧き出たというもので、その夢を観た先代女将の名前を称した施設も残されているそうだ。

葬儀という仕事の中でご家族から故人のお心残りを伺うと「もう一度温泉に行きたかった」と病室で語っておられた話も多かったし、晩節は温泉巡りが楽しみだったというお話も少なくなかった。

我が日本人は温泉が大好きだし、銭湯という文化も大切にしたいものである。

今号の結びに上述した「榊原温泉」のことで面白い体験談があるので紹介しておこう。

九州の友人夫妻が来阪、一緒に伊勢神宮に参拝して帰阪する時の近鉄特急の車内だった。宇治山田駅から乗車、向かい同士に座って話し合っていたら、中川駅を発車してすぐに検札がやって来た。そこで通路を挟んだ反対側の席にいたお婆ちゃんの切符確認した車掌さんが次のように言った。

「お客様、これはもう1本後の上本町行き特急の指定席で、この難波行き特急は榊原温泉駅には停車しないのです」

お婆ちゃんは固まってしまった。車掌さんのアドバイスで「伊賀神戸駅」から戻ることしかないことが判明したが、ちょっと恥ずかしかったみたいで我々に語り掛けて来られた。

「私ね、榊原温泉に住んでいるの。娘が駅まで迎えに来てくれるのだけど停車しないなんて知らなかったわ」

そこで「清少納言」という旅館を利用したことがあると言うと「そこ、私の親戚なの」と言われてびっくりした。

電車はやがて榊原温泉駅を通過。お婆ちゃんは悲しげに駅のホームを見ておられた。

無事に帰阪  NO 3552

北海道で行われた協会の研修会に参加、講師を担当の一人として喋って来たが、やはり体力低下が否めないことを実感、これがきっと人生最後の北海道旅行のような気がした。

24時間で50hpaも低下するという稀な爆弾低気圧を体験したが10月1日の夕方から風雨が強くなり、深夜から明け方に掛けての嵐はまさに台風以上。一部の地域では風速45メートルを記録、多くの交通機関にも影響が及び、JRの特急列車が運休していると朝のニュースが報じていた。

午後の便で大阪の伊丹空港に向かう予定だったので欠航になるのではと心配していたが、午前11時半頃に千歳空港行きの全日空機が伊丹空港を離陸する時にエンジンに問題が発生し、時速130キロの時点から急停止して離陸を中止したそうで、滑走路に金属片が散乱したことから空港の滑走路が閉鎖され、まるでWパンチみたいな事態に大幅な遅延を覚悟することになり、「もう1泊」「JRを乗り継いで帰阪する」「2時間以上掛けて千歳空港に行き、関西空港行きの便を利用する」「羽田行きの便を利用して東京から東海道新幹線を利用する」と様々な帰阪のルートを考えていたが、JRの場合にまず青函トンネルを経て新青森に向かう「特急スーパー白鳥」が運転されているか、また、南千歳駅まで利用することになる「スーパー北斗」が運休していないかや指定券が入手出来るのだろうかという問題もあった。

やって来たルートを逆に戻るのは私が選択する旅の行程で避けることで、今回に2回も利用していた「スーパー北斗」でまた3時間もと考えると億劫になってしまった。

「スーパー白鳥」「はやぶさ」「のぞみ」と乗り継いでも9時間も要する。体力低下している現在ではまず無理。2年前に苫小牧、洞爺、函館、八戸、気仙沼と5泊して全てを列車移動した体験があるが、夕食に出た食前酒を飲んだことが悪かったみたいで帰阪してから入院することになり、土曜日の発病を月曜日まで診察を待ったのが影響し、かなり悪化して11日間も絶食を強いられたので無理をする気持ちはなく、函館でもう1泊を覚悟していた。

午後1時40分の便が予約してあり、昼頃に函館空港に送って貰ったが、車を降りてターミナルビルまでの横断歩道で吹き飛ばされそうな強風に恐怖を感じた。

チェックインのカウンターに行くと「飛ぶ予定です」と聞いて搭乗券を発券して貰ったが、前述した伊丹空港の閉鎖から折り返し便が大阪を出発出来ず、大幅な遅延ということになった。
飛行機嫌いの私は出来るだけ小さな飛行機を選択している。搭乗も降機も早いし、荷物が出て来るのも早いというので歓迎しているものだが、今回は強風の中で離陸するので大型機にすればよかったと後悔した。

離陸して雲の中に入ったら「降ろしてくれ」というほど大揺れで恐ろしかったが、1万1000メートル上空で水平飛行になると落ち着いたのでホッとした。

佐渡島上空から能登へ向かっていた時、想像では1000メートルぐらい下で小型旅客機と擦れ違ったのが見えた。過去に1000メートルぐらい上を飛ぶ飛行機と擦れ違った体験があるが、あっという間なので珍しいことであろう。

若狭湾に入ると眩しい夕方の日差しの中に天橋立が見えた。そこから15分で着陸とアナウンスが流れたが機内誌を読んでいて外を見たら生駒山が見え、随分と高度が低くなっていることを知った。

小さな揺れで高度を落とし、やがて無事に伊丹空港に着陸したが、ブラジル製の76人乗りの小型機だったので、逆噴射した時は安堵した。

空港からバスで上本町まで到着したが、そこでホテルスタッフの思わぬ対応があって嬉しい思い。その体験については「独り言」に紹介したのでご笑覧を。

大雨の思い出  NO 3551

台風18号の影響からか、関東から東北の記録的な豪雨の齎した水害は衝撃的なレベルで、避難を余儀なくされている方々が元の生活に戻れることを願っているが、自宅を流されてしまったケースもあることを考えると余りにも気の毒過ぎる。

今日は日曜日で多くのボランティア活動の人達が駆け付けてくれているニュースが救いになったが、行政の抜本的な救援と支援が望まれている。

「独り言」の方に書いたが、過去に大雨で冠水を体験したことが2回あり、その2回目の時の雨の降り方は異常だった。

当時に所属していたライオンズクラブの仲間達と共に旅行に出掛け、九州に在住する友人に連絡をしたら熊本空港へ迎えに来てくれ、車2台で3人ずつ分乗して阿蘇高原ホテルで宿泊。夕食で旧交を温め合って時間が流れたが、その頃から降り始めた雨が尋常ではなく、部屋に戻っても雨音が普通じゃない状態となっていた。

その日は1990年7月2日だった。それぞれがシングルルームの部屋となっていたが、深夜からいよいよ雨足の音が酷くなり、全く眠れない夜となった。

朝の5時頃だった。扉をノックする音に気付いた。開けると真向かいの部屋にいた人物で、異常な雨の状況に恐怖感を抱いており、それぞれの部屋にいた仲間を彼の部屋に集めて話し合うことになった。

「普通じゃない。危険を感じる」という考え方は全員に共通する意見で纏まり、朝食を一番に済ませてホテルを脱出しようということになった。

朝食は午前6時半からとなっており、食事会場がオープンすると同時に入り、短時間で済ませると部屋に戻って荷物を持ち、フロントで精算を済ませて2台の車で熊本市内の方へ向けて出発。午前7時過ぎのことだった。

国道57号線を西に向かって下って行くのだが、擦れ違うのはパトカー、消防自動車、自衛隊の救援車という表示をした車ばかり。杉並木で知られる大津の市街に入ると線路も道路も冠水しており、ブレーキパッドを濡らさないように左足で踏みながらアクセル操作。自転車より遅いスピードで20分ほど走行し、何とか冠水していない道路に到達した。

九州自動車道のインターの電光掲示板には福岡方面通行止め。仕方なく南に向かって八代の方へは走ったが、ワイパーが全く機能しないような猛烈な雨が降っていた。

この豪雨で豊肥本線は線路があちこちで流され1年3ヵ月も不通となっていたが、その現場で撮影された報道写真は衝撃だった。レールが何本も飴細工みたいに曲がっていたからだ。

その後も何度か不通になった豊肥本線だが、現在は様々な観光列車が走っている。

そうそう、数日前にJR九州の「ななつ星」が値上げするというニュースがあった。登場した頃はスイートルーム3泊4日コース2人で110万円だったが、その後160万円に値上げされ、今度は170万円になったそうだ。

値上げの記者会見に腹立たしい発言があったのを憶えている。人気が高いので値上げしても大丈夫と判断したなんて言葉が腹立たしかった。庶民の僻みと思われるかもしれないが、こんな考え方のJR九州の「ななつ星」は乗りたいけど乗らないようにしようと思っている。

防災の日に  NO 3550

9月1日は1932年に発生した関東大震災の日から「防災の日」となっているが、テレビのニュースを観ていたらびっくり。防災の専門家が全国で最も地震による火災の危険性がある地域として、我が生野区が指摘されていたからである。

幅の狭い道が多く、消防自動車も通行出来ず、初期消火の重要性が何よりと言われているが、大地震が発生したらしばらくするとあちこちから火災が発生する危険性が考えられ、関東大震災時でも犠牲者の9割の人が火災の被害に遭っていた事実を紹介していた。

日頃に家族と避難経路や避難先や落ち合うところを決めておくことも重要だが、行政では地元の学校や公園を指定しているケースが多いが、集まる人数のこと、また樹木の存在を考慮すると安全とは言えないところもあり、そんな場合のことも考えておくことが必要である。

喫茶店の常連さん達と防災の避難について話題が出たことがあったが、私が提案した高架の駅から安全な方向へ逃れるというのに興味を抱かれた方も多く、その中に避難先としてJRの貨物駅である「百済(くだら)駅」と決めていた人もいた、

百済駅は東住吉区の国道25号線「杭全(くまた)町」交差点の北側にあり、今里筋に面していてコンテナがいっぱい置かれている広い場所であり、我が家からも歩いて10分ほどで行けるので候補地として覚えておきたいところである。

昔、JRが国鉄と呼ばれていた時代、関西線は高架ではなかった。百済駅も天王寺駅に近い所にあり、現在の高松小学校のちかくだったことを記憶している。

私が幼い頃、国道25号線に関西線の踏切があり、すぐ西にある川に沿って数段階段を降りて通路があったことを憶えているが、蒸気機関車が上を通過すると熱い湯が落ちて来るので気を付けなければならなかった。

中学生になる頃まで国道25号線の踏切のすぐ西まで市電が走っており、百済駅が終点となっており、複線から単線に入って逆の方向へ向かうシステムになっていた。

百済という地名は四天王寺建立のために来日した隣国の人達が命名したとも言われるが、「杭全」「瓜破(うりわり)」「喜連(きれ)」などもそうだと伝えられており、歴史を遡ると興味深い事実を知ることになる。


さて。東京オリンピックの一連の模倣問題を白紙撤回する報道もあったが、「独り言」のコラムでは表面化した時点に「世界の恥だから止めるべき」と書いていたが、委員会、都知事、官房長官が揃って「問題ない」と発言していたことが腹立たしかった。

都知事が今日のインタビューに「前々から疑問を感じていた」なんて発言していたが、こんないい加減な人物が知事とは改めて驚くことになった。

国立競技場も白紙撤回となったし、続いてエンブレムも同じ撤回になってしまった。「お・も・て・な・し」が話題になった招致のプレゼンで総理が「福島は完全にコントロールしている」や「競技場もこれまでにない物を」なんて発言していたことが恥ずかしく思えるが、我が国がいつから羞恥心が希薄してしまったのだろうかと嘆く昨今である。

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