町の中に存在していた映画館が次々閉館。今や繁華街に足を運ばなければ観ることが出来なくなってしまっている。
我が生野区にもかつて多くの映画館があった。弊社の本社横を西に行って運河を過ぎると右側に生野映劇が存在していたが、今はモータープールになっている。
弊社の西館のある疎開道路を少し北に行った所に洋画専門のパーク劇場があったし、その隣に日活系の映画を上映していた生野大劇があった。
大映系の映画は国道25号線源ヶ橋交差点から猫間川筋を北へ200メートルほど行った所にあった電気館が存在していた。市川雷蔵の映画を何度か観たが、ラムネが10円、みかん水が5円だったことを記憶している。
国道26号線の桑津と百済の中間の南側に東宝系の敷島東宝があり、ここでゴジラを観たことも憶えている。
弊社の本社前を通る今里筋の田島5丁目の信号を東へ入るとコトブキ座があった。また時代劇の多かった東映なら商店街を西へ入り、少し行ったところを南に入り、現在スーパー万代の前身が生野東映だった。豪華な衣装で登場する旗本退屈男が印象に残っている。
当時は「封切」という言葉にインパクトがあったし、予告編が流れたりニュース映像まであったので今では考えられない世界だったが、テレビが家庭に普及していなかったこともあったからだろう。
テレビが広まって映画評論家という人達が登場されたが、代表的なのは「淀川長治氏」と「水野晴男氏」だろうが、淀川氏の「さよなら、さよなら」の言葉は今でも鮮明に蘇えって来る。
小学生の頃に強烈だったのはゴジラ。中学生時代は「渚にて」と「駅馬車」。高校生時代は「西部開拓史」と「アラモ」など西部劇が多かったが、どちらも映画ならではのスケールの大きさが感じられた。
そうそう、アメリカでゴジラが話題を呼んでいるそうだが、何かの本でゴジラの日本映画で三重県の鳥羽市の先にある湾でイメージされ、地域を挙げて協力した歴史があることを知った。